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  • 栄誉証書 花村嘉英 南京農業大学

    2015年「从认知语言学的角度浅析鲁迅作品-魯迅をシナジーで読む」華東理工大学出版社
    2017年「日语教育计划书  面向中国人的日语教学法与森鸥外小说的数据库应用  日本語教育のためのプログラム-中国語話者向けの教授法から森鴎外のデータベースまで」 南京東南大学出版社
  • 魯迅とカオス

     魯迅の「阿Q正伝」を題材にしてシナジーのメタファーの作り方を考察した。まず、サピアの「言語」を参考にしながら、中国人と日本人の思考様式の違いについて説明した。さらにサピアに影響を与えたユングの心理学から意識と無意識に注目し、魯迅が自らを託した阿Qの言動と関連づけて同期と非同期の関係を探り、これをカオスと結びつけた。そして最後に、カオスを脳のモデルとリンクさせて、記憶に関する問題にも言及した。人文科学が専門で興味のある方は、翻訳や比較とは一味違うL字の読みに挑戦してもらいたい。
    花村嘉英(2015)「魯迅をシナジーで読む」より
  • 海馬モデル

     銃殺される前に街中を引き回される阿Qが刑場へ向かう途中で車から喝采している人々を見て、ある瞬間に4年前山麓で出会った飢えた狼のことを思い出す。。ここで喝采している人々は、「馬々虎々」という無秩序状態にあり、予測不可能な振舞い(非線形性)を示すと見なされる。そして、刑場へ向けて荷車を引く仕事人と阿Qの視神経がとらえる入力情報は、引き回しの開始の時点ではほぼ同じである。ところが、しばらくすると阿Qは飢えた狼のことを思い出す。つまり、両者の出力は、その時点で全くかけ離れたものになる(非決定論)。
     こうしたカオスの特徴は記憶とも結びつく。近づきも離れもせずに阿Qを罪人として追いかけてくる狼の目。例えば、これがエピソード記憶であり、阿Q並びに彼の周りにいる人々に託された「馬々虎々」という無意識の思想を連続した物体の存在認識に見られるカオスの世界とする理由である。 
    花村嘉英(2015)「魯迅をシナジーで読む」より
  • 海馬モデル

     記憶を司る部位として知られる海馬は、側頭葉と呼ばれる大脳皮質のすぐ裏側にあり、耳の奥に左右一つずつ置かれ、直径が約1センチメートル、長さが10センチメートルほどで、キュウリのような形をしている。
     海馬は神経細胞の集まりで、その断面を見るとS字に似た筋が見られ、そこに細胞がぎっしりと詰まっている。S字の筋の上部はアンモン角と呼ばれ、下部は歯状回と呼ばれる。アンモン角の細胞は三角形の錐体細胞であり、歯状回の細胞は丸くて小さい顆粒細胞である。アンモン角はさらに4つの部位(CA1野、CA2野、CA3野、CA4野)に分けられる(CAとはCornu Ammonisの略)。(花村:2015) 
     この中で重要な部位は、CA1野とCA3野である。これらと歯状回を合わせた三つの部位は、神経線維で繋がった連絡網になっている。海馬の中の情報は、歯状回→CA3野→CA1野の順に伝わっていき、五感の情報がそれぞれ大脳皮質の側頭葉に送られる。しかし、津田(2002)によると、貫通繊維にはCA3野に至るものとこれをパスしていきなりCA1野に至るものとがある。
    花村嘉英(2015)「魯迅をシナジーで読む」より
  • 魯迅とカオスー阿Q正伝の世界 

     阿Qの人柄とこの作品に見られる言語特性をまとめておこう。郑择魁(1978)は、「阿Q正伝」の言語特性として①口語化(白話文)、②正確、鮮明、生き生き、③人物の高度な個性化、④ユーモア、からかい、婉曲表現、反語を挙げている。
    ① 毛沢東主席が「阿Q正伝」に言及したとき、通俗化と口語化を特に評価した(郑择魁:1978、66)。 
    ② 肃然、赧然、凛然、悚然、欣然などの形容詞を用いて正確で生き生きと民衆の表情をはっきりと描いている(郑择魁:1978、67)。
    ③ 阿Qは70過ぎ(趙旦那の息子の曽祖父世代)、未荘村の地蔵堂に住む日雇い労働者。傘禿げを気にしている。辮髪は茶色。酒と煙草は嗜好品。自尊心が強い。
     阿Qの勝利法:心の中で思っていることを後から口に出す。とりあえず都合よくものを考える。伝家の宝刀は忘却。気分屋。賭博の時は、一番声が大きい(郑择魁:1978、69)。
     町へ行って金を稼いで戻ってきて、未荘村の人たちにその様子を語る。しかし、結局は、町で盗みのプロに手を貸すコソ泥に過ぎなかったことがわかる。
    ④ 阿Q自覚のなさを描きながら、彼を覚醒しようとしている。風刺の裏には作者の絶大なる熱情と希望が隠されている。
     男女の掟に厳格であり、元来、真面目な人間。国家の興亡の責任は男にあるとする。(郑择魁:1978、72)。
  • 魯迅とカオスー阿Q正伝の世界 

     時代の背景では五四運動がある。1919年5月4日、第一次世界大戦のパリ講和条約で旧ドイツ租借地の山東省の権益が日本により継承されることになったのを受けて、天安門で北京大学の学生が反日のデモを繰り返した。この五四運動は、1921年の中国共産党成立にも影響があることから、政治的にも文化的にも影響が大きかった。魯迅は弟周作人とともに新文化運動の前線に立った。辛亥革命の不徹底を批判し、反帝国主義、反封建主義の立場を堅持した(郑择魁:1978、17)。毛沢東主席が「阿Q正伝」に言及したとき、通俗化と口語化を特に評価した(郑择魁:1978、66)。
     「阿Q正伝」(1921)では、魯迅が阿Qに自らを同化させて、阿Qや彼の周りの人々が銃殺される罪人を陶酔しながら喝采する精神の持ち主と評した(片山智行:1996、145)。以下では、こうした「馬々虎々」をカオスと関連づけて考えてみる。これもまた記憶との連想が強い。 
     文学作品は、一般的に時代とか社会生活を反映しているものだ。描かれる社会生活には、作者の個性や感性を通した独特の趣がある。そして、作者の思想が登場人物の形象化により表現される。作品の登場人物を形象化することにより、作者は、芸術的な感動を伝えようとする(山本哲也:2002、415)。魯迅の生き写しである阿Qを追いながら、作品に見られる「馬々虎々」の様子を見ていこう。特に、阿Qが五感で捕らえた情報と意識や無意識との関連づけを入出力の対象とする。
  • 魯迅とカオスー阿Q正伝の世界 

     中国近代文学の父魯迅(本名周樹人:1881-1936年)は、辛亥革命(1911年)を境にして新旧の革命の時代に生きた矛盾をもつ存在である。自己を現在、過去、未来と時間化するために、古い慣習を捨ててその時その時に覚醒を求めた。文体は従容不迫(悠揚せまらぬという意味)で、持ち場は短編である。欧州の文芸や思想並びに漱石、鴎外の作品を読破した。1902年に仙台の東北大学で医学を学ぶ。処女作「狂人日記」(1918)は、中国近代文学史上初めて口語調で書かれた。
     清朝末期の旧中国は、帝国主義の列強国に侵略されて、半封建的な社会となっていた。そのため、民衆の心には、「馬々虎々」(詐欺も含む人間的ないい加減さ)という悪霊が無意識のうちに存在した。魯迅は、支配者により利用されて、中国民衆を苦しめた「馬々虎々」という病を嫌い、これと真っ向から戦った(片山智行:1996、16)。そして、中国の現実社会を「人が人を食う社会」と捉えて、救済するには、肉体よりも精神の改造が必要とした。また、儒教を強く批判した。儒教が教える「三鋼五常」(君臣、父子、夫婦の道、人、義、礼、知、信)は、ごまかしが巧みな支配階級を成立させてしまい、中国の支配層の道具立てとなっていた(片山智行:1996、8)。
  • 莫言の「蛙」の購読脳

     莫言(1955年-)の「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」にする。計画出産は、上述のように中国の国策である。正義または正義感は、平等であることをいう。資本主義であれば、確かに法のレベルで形式的に平等がある。一方、社会主義の場合は、平等が実現して初めて平等だと主張される。
     昔から不安な時代に自分自身がどのように人生の舵取りをするかというテーマは重要であった。先行きへの不安は確かなものであり、場合によって虚無的で無力にもなってしまう。そうなったとき自分が生き延びるために、リスクを最小に抑えた生活を送ったり、人生に迷う理由を他者の存在に委ねることで自己を肯定したりする。
     神島(2018)によると、正しい社会のあり方を追求する正義の理論は、自分と相手が合意可能な正義を求め、正しい社会の調節から個人に幸せが齎される。しかし、領域が拡大したら、正しい社会のあり方は、綿密に考察する必要がある。
     「蛙」の内容で見ると、不安な時代は、1949年に人民共和国が成立した当時の人口約5億4千万人から毎年急増した30年間であり、1981年には10億人を超えている。増加の一途を辿れば、国家破産というシナリオも考えられる。国家破産ともなれば、誰もが虚無で無力になってしまう。一方、増加を抑制できれば、リスクが回避され、他の項目、経済や技術の分野との相乗効果も期待できる。
     神島(2018)が説くアメリカの哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002)は、正義の原理に二つのプリンシパルを持つ。一つは、基本的な自由の平等であり、また一つは、できうる限りの社会的で経済的な平等である。自由の平等は、自分と相手が合意可能な正義とし、正しい社会の調節を社会経済の平等と置き換えることも可能である。つまり、皆が満足するように調整できれば、ロールズの原理に近づいていく。そこで「蛙」の執筆脳は、「正義と平等」にする。
     正義に纏わる脳の活動は一徹である。一筋に思い込んであくまで強情に押し通そうとする性質または頭の使い様のことである。「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」、執筆脳を「正義と平等」にすると、シナジーのメタファーは「莫言と正義」になる。これは、リスク回避にも繋がっていく。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」の購読脳

     莫言(1955年-)の「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」にする。計画出産は、上述のように中国の国策である。正義または正義感は、平等であることをいう。資本主義であれば、確かに法のレベルで形式的に平等がある。一方、社会主義の場合は、平等が実現して初めて平等だと主張される。
     昔から不安な時代に自分自身がどのように人生の舵取りをするかというテーマは重要であった。先行きへの不安は確かなものであり、場合によって虚無的で無力にもなってしまう。そうなったとき自分が生き延びるために、リスクを最小に抑えた生活を送ったり、人生に迷う理由を他者の存在に委ねることで自己を肯定したりする。
     神島(2018)によると、正しい社会のあり方を追求する正義の理論は、自分と相手が合意可能な正義を求め、正しい社会の調節から個人に幸せが齎される。しかし、領域が拡大したら、正しい社会のあり方は、綿密に考察する必要がある。
     「蛙」の内容で見ると、不安な時代は、1949年に人民共和国が成立した当時の人口約5億4千万人から毎年急増した30年間であり、1981年には10億人を超えている。増加の一途を辿れば、国家破産というシナリオも考えられる。国家破産ともなれば、誰もが虚無で無力になってしまう。一方、増加を抑制できれば、リスクが回避され、他の項目、経済や技術の分野との相乗効果も期待できる。
     神島(2018)が説くアメリカの哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002)は、正義の原理に二つのプリンシパルを持つ。一つは、基本的な自由の平等であり、また一つは、できうる限りの社会的で経済的な平等である。自由の平等は、自分と相手が合意可能な正義とし、正しい社会の調節を社会経済の平等と置き換えることも可能である。つまり、皆が満足するように調整できれば、ロールズの原理に近づいていく。そこで「蛙」の執筆脳は、「正義と平等」にする。
     正義に纏わる脳の活動は一徹である。一筋に思い込んであくまで強情に押し通そうとする性質または頭の使い様のことである。「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」、執筆脳を「正義と平等」にすると、シナジーのメタファーは「莫言と正義」になる。これは、リスク回避にも繋がっていく。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 花村嘉英 魯迅とカオス 狂人日記

    【要旨】 
     「狂人日記」(1918年)から見えてくるカオス効果を題材にして「魯迅とカオス」というシナジーのメタファーを考察する。最初に認知言語学における一般的なメタファーの分析について考える。シナジーのメタファーは、その上位概念である。「狂人日記」が執筆された当時の中国は、内戦と列強国との戦いを繰り返す二重の戦争状態にあり、中国人民の振舞いは無秩序で不規則なものであった。
     主人公の狂人は、被害妄想に罹っているため、当時の中国人民が決していわないような社会批判を繰り返す。狂人が受け取る入力は、一般の人の入力と少しずれていると考えてもおかしくない。
     カオスの特徴は、文理を問わずどの分野でも非線形性と非決定論である。この2点を「狂人日記」から引き出すことができれば、作品を執筆している時の魯迅の脳の活動はカオスに通じることになる。作家の思いと人工知能が照合できれば、自ずと客観性が生まれる。