芥川龍之介の「河童」の執筆脳について2


2 芥川龍之介が日本を風刺する

 芥川龍之介(1892-1927)は、1918年(T7)に跡見女学校に通う塚本文子と結婚し、大阪毎日新聞社の社友になる。1921年に大阪毎日新聞社海外視察員として中国の上海、杭州、南京、武漢、長沙を訪れ、北京、朝鮮を経由して帰国した。国際感覚は築くことができた。しかし、30歳にして健康が優れず、神経衰弱、ピリン疹、胃痙攣、腸カタル、心悸昂進などを病む。その7月に森鴎外が死去する。
 32歳になると、健康面が悪化し、流行性感冒、神経性胃アトニー、痔疾、神経衰弱などの強い症状が出る。33歳のときに湯治で修善寺に滞在する。健康面は衰え、創作も低調になる。34歳のときに、胃腸病、神経衰弱、痔疾などの療養で湯河原に滞在する。その後、妻子とともに鵠沼にある妻の実家で過ごすも、不眠症の症状が強くなる。
 1927年(S2)35歳のときに義兄の借金の後始末もあり、神経衰弱の症状がさらに悪化した。それでも谷崎潤一郎と小説の筋を廻り論争を繰り返す。谷崎との論争は、「蜃気楼」(1927)の中で蜃気楼に纏わるイメージの連鎖で小説の構成を目指した芥川の実験により具現化される。五味渕(2008)によると、視覚によって認知された像を言葉に置換して理解する人間は、その間に当初のイメージに含まれていた現実味を失う。言語表現が持つ限界を駆使して、芥川は、主人公が見たイメージの断片について幻影まがいの浮遊感を醸し出した。マッチの火から見える砂の悪戯で蜃気楼も作られているとある。

花村嘉英(2020)「芥川龍之介の『河童』の執筆脳について」より


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