2 Lのストーリーについて
有島武郎(1878-1923)は、官僚の息子として東京に生まれ、10歳で学習院に入学し、11歳で当時の皇太子の学友に選ばれ、19歳の時に卒業した。札幌農学校ではキリスト教の影響を受けた。「聖書を食とし、祈祷を糧とする」生活は、苦行であり、このころから武郎には、鬱の症状がみられ循環性気質があった。鎌倉幕府の農政に関する研究で農学士になる。
その後、軍隊で実績を作るも一年間で除隊し、恩師の新渡戸稲造に意見をきき渡米する。ハバフォード・カレッジの大学院では、英国史、中世史、労働問題そしてドイツ語を学んだ。修士論文では、神話の時代から将軍家の滅亡までを考察しながら日本の文明の発展を論じている。その後、ボストンのハーバード大学の大学院では、美術史、宗教史、欧州史などを学び、社会主義にも関心を持ち、ボルチモア、ワシントンと移動しながらロシアや北欧系の文学を通して自分の文学思想を見出した。
こうしてみると、作家として活躍するまでに、文系理系の双方で研究実績があり、文理共生の素行はできていた。
帰国後、母校の予科講師となり、英語の先生をする傍ら、神尾安子と結婚する。すでに32歳になっていた。また、武者小路実篤、志賀直哉らに出会い、白樺派のメンバーとして小説や評論を書いた。私小説「小さき者へ」(1918)は、結核患者の妻安子が登場人物に選ばれたところに当時の事情が窺われる。そして、妻と父が相次いで死んだことが生活に変化を齎し、専業で作家になった。
幼児を残したまま結核で死んでいく妻(1917年8月2日没)を思う気持ちは、苦境に負けることなく自分を越えてほしいと子供たちに期待する父親としての思いと交錯し、短編ながらも小さなことがそうでなく、大きなこともそうでないことが伝わる。
そこで、「小さき者へ」の購読脳は、「葛藤と子供への指導」とし、執筆脳は、「記憶と感情」にする。また、「小さき者へ」に関するシナジーのメタファーは、「有島武郎と葛藤」である。
花村嘉英(2020)「有島武郎の『小さき者へ』の執筆脳について」より