表1 対処行動の分析
分類 | 「道ありき」から抽出した場面の病跡状況 | 対処行動 |
A | 17歳で小学校の教員になった綾子は、昭和21年3月、7年間の教員生活に別れを告げた。自分自身で教えることに確信が持てなくなったためである。6月1日、突如40度近い熱が出た。翌朝、目が覚めると、体中が痛くてリウマチだと思った。病院に行くと、医者もリウマチだと言い、ザルブロという薬を打ってくれた。 | ① |
A | 一週間経過してある程度の痛みは消えた。しかし、体重が七キロも痩せ微熱がなかなかひかない。当時の医者は、肺結核を肋膜とか肺浸潤と説明した。肺結核の発病は、覚悟していたことが起こることを予感させた。 | ① |
A | 来るべきものが来れば、誰でも自分のことを本気で大切に考える。前川正との話の中で、徹底的に身体を診断してもらうことにした。昭和26年秋、綾子の体はいっそう痩せ、目が熱で潤み頬が紅潮し、37度4分の熱が続き血痰も出た。10月20日過ぎに旭川の病院に入院した。 | ③ |
A | 入院して4カ月経過後も、熱は続き痩せていた。 | ④ |
A | 排尿の回数が多くなり、動くと背中が痛かった。自分ではカリエスと見当をつけた。しかし、医師は、レントゲンに影が出るまでカリエスと診断しない。 | ① |
A | 札幌の病院に転院後、血液検査、尿検査、レントゲン撮影、水検査と立て続けに検査があった。結果的には、綾子の胸部にも脊椎にも異常は認められなかった。 | ① |
A | 内科の外来で聴診器を当ててくれた医師が「空洞がある」という。 | ② |
A | 微熱があり、肩もこり、血痰も出た。背中の痛みは、ますますひどくなった。スリッパも履けず、このままだと下半身に麻痺が出て、失禁の症状になる。結局、背骨を結核菌が蝕むカリエスという診断がでる。 | ② |
A | ギブスベッドに安静にしていなければならなくなった。 | ③ |
B | その後、入院を繰り返す綾子は、婚約者の西中一郎の死後、幼馴染の前川正という北海道大学医学部の学生に惹かれていく。このままでは死んでしまうとする綾子への愛は、信じなければならない。 | ⑤ |
B | 綾子は、酒もたばこもやめる。前川正は、教会所属のクリスチャンである。綾子も教会へ通い始め、前川に薦められて伝道の書(旧約聖書)に目を通す。何もかも空なりとあり、綾子の心は引き込まれた。当初は虚無的な見方があっても、キリスト教と仏教に共通する姿を発見したことが転機となり、綾子の求道生活は、次第に真面目になっていく。 | ⑤ |
B | 昭和二十五年、綾子と前川正は、以前に比べて親しくなる。旭川の保健所で週一回気胸療法を受けた。肋膜が癒着しない限り、結核患者の胸にゴム管がついた針を刺し、気胸器から空気を送り、空気が肋膜腔に入り胸を圧迫し、肺の病巣は、空気で潰される。(トーマス・マンの「魔の山」でもスイスのダボスにあるサナトリウムのベーレンス院長が気胸病の患者に同じ方法で治療をしている。) | ⑤ |
B | 馴れた医師には注意が必要である。うっかりして針を血管に刺すと、空気が血管に入り空気栓塞が起こる。また、肋膜腔内に入れる針が、肺に達することがある。呼吸する度に空気が腔内に洩れて肺を縮めやがて死んでしまう自然気胸もある。 | ② |
B | 死にたいと思っても死ねず、生きるために自分の意思を奮い立たせても、それ以外に何かが綾子の身体に加わっている。 | ④ |
B | 何か計画を立てても自分の思い通りには事が進まない。西中一郎との結納の日に綾子は倒れ発病し、結婚の予定を変更した。綾子は、人間の計画を何者かが修正してくれていると考える。無論、神である。 | ⑤ |
B | 昭和26年に札幌の病院に転院したころ、前川正は、綾子に生きることが人間の権利ではなく義務であると叱るように励ました。 | ② |
C | 前川正の喪が明けてから、綾子の病室を訪問する客の中に三浦光世という男がいた。旭川営林署の会計係である。死刑因と文通し、慰め力づけている人である。やはり腎臓結核の手術歴がある。 | ② |
C | 確かに結核は、侵入経路の大多数が肺に出る。また、肺や腸、腎臓などの臓器や骨、関節そして皮膚を侵し、胸膜炎や腹膜炎も起こす。綾子は、熱が出て寝汗もかき、血痰が増え面会謝絶になる。 | ① |
C | 病気を気づかう見舞いから、次第に三浦光世に惹かれていく。 | ⑤ |
C | 微熱や寝汗はあるも少しずつ体力がついたころ、万一のために遺言を書き、歌を整理していた。自分の死体を解剖してもらいたい。解剖用死体が不足しており、死後に何かの役に立ちたいと思ったからである。 | ⑤ |
C | 三浦光世にノートを渡すと、必ず治るといって読んでくれた。三浦の手紙には、最愛なるという形容が綾子の名前についていた。愛の励ましのおかげで、綾子の体は元気になり、外出もできるようになった。 | ⑤ |
C | 昭和三十四年の正月、三浦の年頭の挨拶のとき、婚約式が1月25日に決まった。式が終わると、結婚式は5月24日になった。よく晴れた日曜日に教会堂で牧師の言葉に二人で深く頷いた。 | ⑤ |
結果
A発病による影響では、対処行動が①、②、③、④とバラついている。しかし、B周囲の対応からC病の回復へ進んでいくと、対処行動は⑤が多くなる。従って、三浦綾子の「道ありき」から病跡学へアプローチした場合に、高橋(2000)が説くうつ病者本人の対処行動の流れに近い分析が可能といえる。
なお、うつ病は、精神を安定させる神経伝達物質のセロトニンが不足すると発症する。セロトニン不足により落ち着きがなくなり、衝動的で、攻撃的になる。セロトニンの正常な放出をじゃまするものは、ストレスである。三浦綾子の場合もそういえる。
花村嘉英「三浦綾子の「道ありき」でうつ病から病跡学を考える」 中国日语教学研究会上海分会論文集 2021