三浦綾子の「道ありき」でうつ病から病跡学を考える7


【連想分析1】

表3 受容と共生のイメージ合わせ

  医師の診断の疑う場面意味 1意味 2意味3意味4疾病 脳
A わたしは、医学にはしろうとである。しかし、尿の回数が多いと言えば、少なくとも検尿ぐらいはするだろうと思った。それがいきなり尿のでなくなる薬と聞いて、この病院にいても埒があかないと考えた。23111
B 熱がでると解熱剤、下痢をすると下痢止め、咳が出れば咳止め、というのは一番信頼できない医師のすることではないだろうか。何よりもその原因を調べた上で、適当な処置がなされなければならないはずだった。わたしが退院を考えたのは、このことだけではなかった。23111
C その頃、私の背中がちょっとでも動かすと辺に痛むのだ。院内の外科医に見てもらうと、「神経だ。若い娘のことは、よく背中が痛むことがある。いちいち気にとめる必要はない」と言った。しかし、動かすと痛いのだから、もしかしたらカリエスではないかと尋ねてみた。53111
D 医師は怒った。「レントゲン写真にも変化がない。神経だ」再び叱られて、いたし方なくわたしは病室に帰ってきた。わたしは、療養生活七年目であった。もう、客観的に自分の病状を捉えることができるはずである。22111
E 誰でも最初のうちは、病気のことがよくわからないから、いらぬ神経を使うが、少なくとも六年の経験というものは、それほど神経質にはさせないはずである。医師が何を言おうと、わたしは病状からしてカリエスだろうと見当をつけた。カリエスの患者の話を聞くと、そのほとんどが、幾度か医師の誤診にあっているのだ。22111

花村嘉英「三浦綾子の「道ありき」でうつ病から病跡学を考える」中国日语教学研究会上海分会論文集 2021

シナジーのメタファー4


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