谷崎純一郎の「盲目物語」で執筆脳を考える2


2 「盲目物語」のLのストーリー

 谷崎純一郎(1886-1965)は、関東大震災(1923)を境にして作風が大きく変化した。それ以前の初期の作品は、美を最高とする芸術至上主義の立場にあり、精神よりも感覚を重視する耽美派に入る。震災以降は、関西移転により日本の風土や伝統を改めて理解したことが古典への関心や歴史小説の執筆に繋がり、谷崎の文学への関わりが大きく変化した。
 「盲目物語」(1931)は、近江の浅井長政(1545-1573)の小谷城に奉公したこともある66歳の盲目の老婆が語り部で、戦国時代を生きた人間の喜怒哀楽や織田信長(1538-1582)の妹で長政に嫁ぎ、信長が朝廷と室町幕府を抑える際に一役かったお市の方の閉ざされた運命が語られる。そのため、購読脳は、「喜怒哀楽と悲運」にする。語り部が盲目なこともあり、原作では平仮名を多く用いている。井上(2010)によると、谷崎の作家人生を通してこうした中期の作品から日本語の伝統に基づいた独自の古典的文体が特徴になる。  
 お市の方は、長政に嫁いだものの、1570年姉川の戦いで朝倉とともに長政が信長に敵対したため、1573年信長が長政を攻め滅ぼし、お市の方も信長のもとに帰る。明智光秀が秀吉に滅ぼされた後、1582年の清洲会議でお市は柴田勝家(1522-1583)と再婚することになる。しかし、信長亡き後もお市の方には悲運が続く。勝家の居城越前北の庄城に移るも、1583年勝家が秀吉に滅ぼされ、お市の方も自害した。  
 こうした物語が盲目の老婆により語られるところは、確かに古典の趣がある。例えば、哀楽の楽しい方の一例でいうと、お市の方の三人の姫君がそれぞれ出世するとは、だれがおもいましたでございましょう、かえすがえすも御運の末はわからぬものでござります、とある。語り部に悲運を語り継がせる作者の気持ちから、執筆脳は「感情と伝承」にする。なお、三人の姫君は、清洲城で織田信包(1543-1614)に養育された。
 「盲目物語」の作風としては、谷崎の抱く感情や意思そしてこころもちが相応しい。また、総じて一文が長い。老婆の語りのためであろうか。そこで、購読脳と執筆脳を合わせたシナジーのメタファーは、「谷崎純一郎と情意」にする。

花村嘉英(2020)「谷崎純一郎の『盲目物語』の執筆脳について」より


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