国木田独歩の「武蔵野」で執筆脳を考える2


2 「武蔵野」の思考によるLのストーリー  

 国木田独歩(1871-1908)は、父専八が裁判所書記官として山口県に赴任したため、多感な青年時代を山口で過ごした。滝藤(2012)によると、明治時代の青年に共通する政治や英雄を目標に掲げる生き方は、独歩にも見られた。しかし、精神的な革命が起こる。立身出世を夢見て上京しても開かれた将来が閉塞感に閉ざされもした。
 1891年(M24)1月、一番町の教会で洗礼を受けた。外を見ていた独歩の目が閉塞感から内に向かったためであり、出世争いが招く都会での孤独や不安を解消しようと、宗教や文学を救済とした。東京専門学校を中退し、一旦帰郷する。しかし、独歩は、田舎と都会、内と外、そして信仰と野心の間を振り子のように揺れ動いた。 
 1892年、再度上京し、洗礼を受けたこともあり、神を見続け、英雄に共通する誠実さを信仰の基本とした。その後の人生では、至福の時間の回復こそが理想となった。父の免職により、社会と関わるようになった独歩は、自由社記者、大分の田舎教師、海軍従軍記者と職歴を重ねるも、作家活動は失業中に行われたため、文学活動は揺れ動いた。
 確かに短編が多い作家である。滝藤(2012)は、作品中に誠実な眼で天地自然の存在を見出し、人物や自然に見る存在感を指摘している。また、人物描写は、明治時代に特有でしかも失意の人や慎ましい人に向けられた。文体は、言文一致の「武蔵野」でも誠実な自分が語り手のため、主観も客観も描写が可能であった。
 テーマで見ると、小民は、気持ちを落ち着かせるために必要であった。妻信子による離叛も影響がある。心の痛手を癒すために東京の郊外で過ごし、内面を持つ新しい個人の出現、独歩の内面の写し絵として武蔵野自然を使用した。

花村嘉英(2020)「国木田独歩の『武蔵野』の執筆脳について」より

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